ランサーズのプロジェクトのお陰で、一日に書く文章の文字数が格段に上がっている五十代アクティブニートの川島です。
今回は、ボクの歩んできた軌跡シリーズ エピソード5(Episode PartⅤ)をお送りしたいと思います。
ボクの歩んできた軌跡シリーズ エピソード4(Episode PartⅣ)では、ボクの建設不動産業での少し遅れてきたバブル崩壊までお話しましたね。
少し遅れて訪れたバブル崩壊によって、新たな業種にチャレンジ
本当のバブル崩壊より少し遅れてボクのバブル崩壊はきたわけだけれども、元手資金は1500万円あるものの何の仕事をやったら良いのか皆目検討がつかなかった。
1998年の暮だったと思う。恩師でもある広告代理店兼不動産事業の社長さんとファミリーレストランで食事をしているとき。
ということで、厨房家電やブランドリサイクルショップ等、ありとあらゆる情報集をしてときには、各リサイクルショップに内偵に行って調べたりもした。
様々な検討をした結果、厨房や家電のリサイクルは電気関係などの知識も必要になると思い、比較的ボクでもやれそうなブランドのリサクルショップをやろうと考えた。
とは言え、全くと言っていいほどブランド(例えばヴィトンやシャネルなど)にも興味はなかったし、身につけてもいなかった。
今まで、興味があるものといったら、スキーやスキューバダイビング、ジェットスキーなどのレジャー・スポーツだった。
当時の奥さんや妹にも相談してみたところ~。
失笑の嵐だった!!
でも、ボクのビジネス的感覚からは、これからの時代の波に乗れる気がしていた。こういう匂いの嗅ぎ分けには自信があった。
とは言え、全くもってブランドを身に着けたこともなく、ブランドに興味がない人間がどうしたら良いものか?!
当時のブランドリサイクルショップオーナーの講習に飛び込むことに!
当時、新宿で飛ぶ鳥を落とす勢いだったブランドリサイクルショップの女性オーナーが主催していたリサイクル協会のリサイクルショップ開業セミナーに参加することにした。
確か、この女性オーナーは当時、10店舗以上のリサイクルショップを経営していたと思う。規模としては、No1オーナーだった。
開業セミナーは、2日間か3日間ほどだったように記憶している。ボクが参加したものは、ブランドリサイクルショップを開業したい人が受けるセミナーだ。講師は、すでにブランドリサイクルショップを経営されている方で構成されていた。
開業までの手順や買い取り方法、販売方法、偽物鑑定、広告戦略など多岐にわたって講義が進んでいった。この手のセミナーは誰でも簡単に開業できますよっていう締めで終わるのだが、このセミナーもご多分に漏れずそのようにセミナーが終わった。
このセミナーの最終日に、講師の方々との懇親会が設定されていたが誰一人参加する人がいなかった。
ボクは、この懇親会こそお酒も入るし本音が聞けると思い参加をした。ビックリだが、セミナーで参加した中でボク一人。
案の定、お酒が入ってどこ講師の方も本音を喋りはじめた。開業までの苦労であるとか、偽物を掴まされた話しや詐欺にあった話しなど講義内容よりもはるかに濃ゆい内容だ。
そんな懇親会も後半になったとき、この飛ぶ鳥を落とす勢いの女性オーナーからこんな提案をいただいた。
こんな感じで、懇親会に参加したことでテレビ出演というキップまで手に入れてしまった(笑)
やっぱりテレビ出演の影響力は、かめはめ波より凄かった!
飛ぶ鳥を落とす勢いの女性オーナーが主催するブランドリサイクルショップ開業セミナーに参加してからというもの、お店の物件選びから店舗オープンまでを密着でテレビ取材が入った。
その他、ブランドに詳しい男友達にも手伝ってもらい、なんとこの友人がパリやニューヨーク、ロサンゼルスなどでのブランド買い付け(ヴィトン、シャネル、プラダ、グッチ、エルメス、ギャップ)に付き合ってくれたのだ。本当に感謝している。なにせ、ブランドがほとんど分かっていないボクに色々教えてくれながら、パリ~ロス~ニューヨークと地球一周コースに付き合ってくれたわけだ。
また、この友人夫婦は、テレビでの買い取りシーンにも登場していただいた。
その後は、その友人のパリ在住の方を紹介してくれてエルメスのバーキンなどの仕入れにも協力をしてくれた。
その他、親父の内縁の女性がやはりエルメスやシャネルの買い付けをして販売もしていたので、その女性からもエルメス バーキンやシャネルの洋服の提供をうけることができた。ただ、実は、この女性こそが今後のボクの人生を狂わせることになろうとは思いも知らずに。
こうして、様々な方々の協力を得て、1999年6月に東京都杉並区北阿佐ヶ谷に、ブランドショップ ドルフィンという名のリサイクルショップをオープンさせることができた。このドルフィンという名の由来は、ボクがスキューバダイビングをしているときに一番好きなのがイルカということ。
オープン当日は、テレビの取材も入っていたということもあるかもしれないが、売上は20万円を超えていたと思う。また、取材中に買い取りをしていた食器を落として割ってしまうというアクシデントに見舞われる。ただ、このときの対応がテレビが放映されたときにユーザーに良い印象を与えたようで、テレビ放映後にはお店の中が日々買取や販売でごった返していた。
テレビ放映のあった6月初月売上は、780万円を超えていた。
テレビの影響!恐るべしだ!
ただ、テレビの影響もだいたい半年も経つと徐々に薄れていき、お店も落ち着きを取り戻して月の売上はだいたい350万円前後だった。年が明けて2月頃には200万円まで売上が落ちてきたため、何か策を練らないといけないと考えていた。
インターネットと使った買い取りや物販を始める
ときは2000年、店舗での売上もテレビの影響がなくなっていったせいか、売上がどんどん減っていき、2000年2月には月刊売上が200万円まで落ち込んでいた。
そこで、当初、まだまだインターネットを使った商売が始まったばかりの頃、ホームページを作成してインターネットでの買取や販売を手がけるようになる。ヤフーのオークションとも連携させて、売上がV字回復をして月刊売上を400万円を回復していった。
このころは、ブランド雑誌も色々な媒体が発刊されていた時期でもあった。ボクはブランドバーゲンに広告を掲載してよりホームページとの連携を強めていき、売上も安定していった。
また、このころ、ホームページでブランドの偽物情報を流し始める。当時、これはかなりのタブーだった。ある質屋からは情報を流すなと連絡がきたりもした。ただ、エンドユーザーに有益な情報を流すのが筋だと思っていたボクは、偽物情報を流し続けた。
すると、ブランドの偽物の鑑定依頼が入るようになった。鑑定をして偽物とわかったら、その販売した業者に返金請求をするところまでを無料で行っていた。
そのことをテレビ局が嗅ぎつけ、情報番組で取り上げるようになって韓国まで偽物を販売しているお店に潜入取材をしたり、V6のバラエティ番組に出演するなどテレビ出演の機会も増えた。
2000年代前半は、日本はまさにブランドブームに沸いていた時期でだった。エルメスのバーキンもパリで40万前後で仕入れをして90万で売れていた時代だ。ボクも親父の内縁の女性がエルメスのパリ本店のマネージャーと好意にしていたこともあり、予約が入る日程がわかったため、友人を介してパリで予約し日本に送ってもらい店舗やホームページ、雑誌で売っていた。
2002年には、タイ バンコクのBTS(モノレール)のチットロム駅(日本で言うところの銀座みたいなところ)の駅構内のキヨスクで、タイ人向けのブランド買取センターを設立。
ボク自身もこの当時は、飛ぶ鳥を落とす勢いだったかもしれない(笑)
今でこそ、それほどでもないがリサイクルショップの凄さは、その粗利益にある。なぜ、粗利益が高いと思われるだろうか。
まず一つ目は、買取をするときについてだ。自分のものを手放すということは飽きたかもう使う予定がないということだ。それって、そう、いらないということは限りなく0に近いわけだ。逆に販売するときはどうだろう。商品を買いたいと思うときは限りなく100に近づくわけだ。
ブランドのレア物(なかなか手に入らない)ということになれば100プラス(定価以上の値段)でも買いたい人はいるわけだ。
このように、当時のブランドリサイクルはボクのお店でも粗利益は70%を超えていた。当時の税理士もびっくりしていた記憶がある。
当時の山の手線の中を見渡すと、ヴィトンやシャネル、エルメスのバックで溢れかえっていた時代であったからこそ、成り立つビジネスモデルだったと思う。
ブランドリサイクルも徐々に陰りが見え始める
一つのビジネスモデルもやがて下降するときが訪れる。ただ、そんな下降する中でも対応策を見出すことは必要だ。
ボクは、オープン当初から女性向けのブランドに注視してきた。1999年~2005年まではブランドリサイクルといえば、女性ブランドを中心に良く商品が売れていた。
2005年頃になると、少しずつ女性用のブランドの販売の落ち込みが大きくなってきた。そう、山の手線の中でだんだんとヴィトンやシャネル、プラダのバックが消えていった時代だ。
ボクは、このときに、2つの大きな決断をすることになる。
一つは、女性向けブランドから男性向けブランドに切り替えていく。女性向けも扱うが圧倒的に男性向けのブランドに舵を切った。これが、功を奏することになる。
もうひとつは、自宅を建て替え一階部分を店舗にするという決断。これは、古い自宅は親父の事業用の借金があり銀行の抵当が入っていたため、数年前に住宅ローンでボクの名義に変更していた。銀行とも相談して追加融資を受ける形で、また、夫婦で話し合い頭金を貯金の1000万を投入して自宅を建て替える策に出た。
ただ、このときの貯金を使ったばかりに、のちのち、子どもたちに迷惑をかけることになるとは、このときは思ってもいなかった。
これにより、借りていた阿佐ヶ谷の店舗が家賃25万円だったのを住宅ローンに切り替えたことで毎月13万円に圧縮することに成功した。
お店の売上が落ち込む中でのこの2つの策は、生き残るための策であった。狙い通り、男性ブランドを扱うリサイクルショップはまだまだ少ない時代でもあたっため、売上も回復し店舗経費も節約でき、順風満帆の風に乗ろうとした矢先にあるとてつもない事件が勃発することになろうとは、この時のボクは知る由もなかった。
おっと、もうこんな時間!
今日のところは、このへんで。サワディクラップ!
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